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理事長ブログ 株式会社中広 代表取締役 後藤 一俊

沖縄を思う

2022年5月19日

沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ 



15日・沖縄日本復帰・50周年でした。沖縄復帰に私は思い入れがあります。
ブログに書くには刺激的であります。青春の墓標とでも申しておきます。
50年前のこの日、沖縄恩赦が実施されました。私もその対象者のひとりでした。



沖縄を語る時、ときの海軍・太田實司令官が20年6月6日、海軍次官に発出した電文と
復帰に関する式典で天皇陛下が述べられたお言葉が全てだと思っています。
改めて理解を深めたいと思います。



昭和天皇は復帰式典で「多年の願望」と喜びを語られ「先の戦勝中、戦後を通じ、
沖縄県民の受けた大きな犠牲を悼む。長い労苦を心から労い、今後全国民が協力して、
平和で豊かな沖縄県の建設と発展に力を尽くすよう切に希望する」と。
沖縄県民に配慮をと国民の呼び掛けられました。



上皇(平成天皇)は復帰20周年式典で「先の戦いで多くの命が失われ、苦難の道を歩んできた
沖縄県の人々のことを思いつつ、この式典に臨むことに深い感慨を覚える」「沖縄県が
発展し、県民の福祉が向上していることは心強いことです」そして「沖縄の復帰は日米両国の
友好と信頼に基づいて実現した。両国間の関係が一層進展し、世界の平和に寄与するものと
願ってやまない」と述べられました。日米同盟を容認されました。



天皇陛下は「大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は『ぬちどぅたから』
(命こそ宝)の思いを深められたと伺っていますが、その後も苦難の道を歩んできた
沖縄の人々の歴史に思いを致しつつ、この式典に臨むことに深い感慨を覚えます」と。



もう一つ、沖縄方面根拠地隊・太田實司令官が海軍次官宛てた電文です。
太田實司令官は1891年、千葉県生まれ。海軍の中でも陸上戦を主に担当。
1945年1月、沖縄方面根拠地隊の司令官。沖縄県豊見城(とみぐすく)市の
海軍司令部壕(ごう)を拠点に4月からの米軍との地上戦を指揮。



日本軍の情勢が厳しくなった6月6日、沖縄県民の献身的な戦いぶりを記し、
配慮を求めた「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
との海軍次官宛てに打電。そして、6月13日、幕僚とともに司令部壕で自決した。
54歳。死後、少将から中将に昇進した。



天皇3代のお言葉、根底にあるのは、太田實司令官の「後世特別ノ御配慮ヲ賜ラン」
の電文ではないでしょうか。果たして国民はどうか。天皇のお言葉に、太田司令官の
命を懸けた願いに応えてきたか、答えているか・・・
それが問われる復帰50周年記念ではないでしょうか。Goto 



太田司令官が海軍次官に宛てた電文の全容を掲載します。
ぜひ、一読願います。沖縄に対する思いを理解したいものです。



 次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。

 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。



 沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘に専念し、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。



 しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。



看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。



これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。



沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。「沖縄県民はこのように戦いました。
県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように」・・・